飾大バイオグラフィー

2011年6月25日更新

先般編纂された天理教飾大分教会史では紙数の関係で全文を掲載しきれなかった稿本バージョンを「天理教飾大分教会80年のあゆみ」と題して全文掲載させていただきます。

天理教飾大分教会80年のあゆみ

天理教飾大分教会は大正十二年十二月二十一日に天理教飾大宣教所として設立された。
竹川萬治初代会長初代会長竹川萬次は明治十六年一月二十五日、兵庫県飾磨郡高岡村今宿千百八十番地(現在の東今宿)に、竹川利木蔵、もとの長男として生まれた。竹川家はかなりの田地を持ち農業を営んでいた。その頃の農家では当然のことだが、萬次も小学校を了えてから、父を助けて農作業に勤しんだ。身も心も健やかにして、父母の思いに素直に就き従う跡取りの姿に、竹川家は安心と期待に満ちた陽の当たる毎日であった。
紺谷久平先生ところが萬次が十二、三歳の頃、予期せぬ薄雲が竹川家を覆い始めた。目が不自由になったのである。両親があちらこちらと眼科医を巡り、医薬の限りを尽くしたのはもうすまでもない。しかしながらその甲斐は現れず、十六歳の時には、遂に失明の恐れもありと診断されるに至った。(如何になる眼病だったのか病名は定かではない。飾東初代紺谷久平先生と同じく、眼のお手入れでは通じるところである。)
薄雲が黒雲に変わって覆いかぶさってきた両親の失意と不安は推し量るに余りあるところだ。
如何なる縁が取り持ったのかは不明だが、飾東直轄の布教師三木源蔵が萬次のおたすけに掛かった。おさづけを取り次ぐ毎に萬次の眼に明るさが戻り、遂には元の視力に回復した。この不思議に、また初めて耳にする親神様の思し召しに、父母の感激は言うまでもないが、更に心震わせたのは十六歳と若く純粋な心根の萬次である。三木源蔵布教師が白熱で教理を語り、一心込めておさづけの理を取り次いだ状は大いに想像できるが、何を説き、また両親と萬次がどう悟り、如何に心を定めたがゆえの不思議な御守護であったのかは記録に留まっていない。しかし萬次の心に天理の御教えの道に寸分の間違いはない、己が進むべき道はこれしかない、との思いが強く根付いたことは確かである。
三木源蔵先生三代会長竹川俊治は「通常の人間の常識や通念からは、想像もつかない親神様、教祖のおはたらきによって、現実に存在する〈をや〉の実在(現実存在)を我が心に肌に実感することができないからではないか」と初代のお心を拝察し、そして「〈をや〉の実在を確信できてこそ、ほんものの信仰が出来るのである。そして、あらゆる困難や苦労も胸を張って乗り越えることができるからである」と活きたほんものの信仰にとって、〈をや〉を自らの心で肌で体感することが不可欠なりと語っている。(ちなみに三木源蔵先生は飾東郡城北村白国の人で明治二十三年におさづけの理を拝戴され、人だすけに尽くされた。後年大教会の住み込み役員また理事として初代を支えられた方である。反対する者から肥を浴びせられたとか、溝に突き落とされてもおたすけに運んだとか、命がけでおたすけに尽くした尊い先人である。)
満二十歳になった萬次は徴兵検査に乙種合格し、姫路連隊に入った。健康な視力の証である。物を見る視力を取り戻すにつけ、萬次の心の視力は天理を捉えていた。二年後に除隊するや、天理の道に進みたい、と両親に頭を下げた。「あんたはこの家の跡取りや。田地田畑家屋敷は無論のこと、カマド中の灰まであんたのもんや。なんにも布教師になって苦労せいでも・・・。」と父母は説得したが、萬次が見据えた先に光る天理の道への思い揺らぐことなく、我が儘を詫びて、両親を説き切り、あえて茨の道、苦労の道に入って行った。
眼が不調の時、飾東の初代紺谷久平先生におさとしを願ったところ、「早う心定めんかい」と言われた。「道一条の心、定めとります」と萬次が答えると、初代様は間髪を入れず「定めたら早う実行せんかい」と大きな声で、にらみつけるように眼を見据えて仰った。はっと胸を突かれた萬次が道一条の心を定めて飾磨分教会に入り込んだのだ、と語り伝えられている。明治三十八・九年、萬次二十三・四歳の頃である。
本庄寧彦先生本庄寧彦(滝次郎を改名)二代会長の下、飾磨は正に新しい芽が息吹かんとしていた。菅原吉次郎をはじめ、小島源蔵と嗣子市太郎、糸谷三蔵、角本安蔵、森崎滝蔵など実にたくさんの気鋭が住み込み、競ってにをいがけに奔走していた。多数が救けられ引き寄せられて、月次祭の参拝場が手狭であった、と『飾磨の道百年』に誌されている。尚、住み込み者の多い飾磨の伝統は長く引き継がれた。
一筋に道を求める萬次が、この熱気に身を置くことは、正に水を得た魚である。教義を深め、祭儀を身につけたのは申すまでもなく、おたすけに、にをいがけにと身を粉にして西に東にと身を馳せた。明治三十九年六月三日におさづけの理を拝戴している。姫路市中から在所の今宿、青山、石倉。東には妻鹿、白浜、宇佐崎、高砂へと徒歩を踏んでいる。布教は昼間とは決まらない。夜もこぞってにをいがけに出掛けた。高砂からの帰路、砂浜に打ち上がっている蛸をつかまえたところ、手に脚をからませてくるので、その脚を引きちぎって口に入れた時、空き腹にはたまらぬ味であったと述懐している。今日でも、お好きだったのでと、初代の霊様に蛸がお供えされると聞く。蛸に託して初代の功績忘れまじきとの、飾大びとの心である。
三年に亘って熱気の渦の中で萬次が研鑽し培ったものは多い。教理の勉学、祭儀の習得、そして何よりも存分に経験を重ねたにをいがけとおたすけの実修である。この三種が揃えば、十二分な布教師になると合点するのは早計である。これだけで現在の飾大分教会が存在するはずはない。萬次は信仰の核を伏せ込んだ。教祖のひながたを踏み味わうことを繰り返して、やがては「よふきぐらしをするのを見て共に楽しみたい」との教親の心根に手繰り寄せられるのだ、という信念を構築した。勿論、萬次がひながたを辿るに紆余曲折のあろうはずがない。核とは信念であり、信念を埋め込むのが伏せ込みである。
伏せ込みが成されたことを確認した飾磨の二代本庄寧彦会長は萬次に単身での布教を望み、熟した実が殻を破ってはじけるが如く、大阪に飛んだ。大正三年、萬次萬次三十一歳である。
本庄清則先生御揮毫確たる信念を伏せ込み、充分に布教を体験した萬次を以てしても、大阪での布教が順風満帆に始まるわけはない。往時の布教師の多くが語る如く、苦節、苦渋の道中であるはずのところ、初代会長(以下、竹川萬次を初代会長と記す)は語り誌していない。しかし、飾磨の三代清則会長が「飾大の初代は布教の始め頃、六年間に十三回も夜移りをしている。初代が新しい家が好きやったとか、引っ越しが好きやったとか言う話は聞いたこともない・・・」と初代の布教道中を推し量って偲んでいるように、家移りを止むなくされるわけがあったにちがいない。世上引っ越し理由の最たるは家賃滞納だが、初代にもその理由を充てるのは容易だが、寄り集う人が次第に多くなり、との段階的伸展もまた推察できるのである。いづれにしても初代の妻であり二代会長を勤めたとしゑ刀自が、愚痴や不足、泣き言を生涯通して言われなかったお方であるから、初代もご自信の苦労を話すのが本意ではなかったに違いない。杓谷やくゑ刀自が「苦しい時、つらい時に喜んでないと、運が向いてきた時に喜ばれんで。苦しい時に喜んで通っておれば、運が向いてきた時は何十倍も喜ばせてもらえるのやで」との初代の言葉を述懐しているが、初代の喜び方への真骨頂を窺い知ることが出来る。初代にとって、通った道全てが味わいであり、喜びとして心を滋養しているのだ。
教会を貰う(設立する)までは嫁はんを貰わん(結婚しない)、と誓い、布教に専心すると両親にも告げたという萬次の一途だが、それは決して万然ではなかった。奇しき知らせで久方ぶりに姫路の今宿に帰ると、父利木蔵は「あんたの顔がどうしても見とうなった」と言った。そして「まあ、四・五日ゆっくりしていってんか」と告げる父親とゆっくり語り合った。「わしはなあ〜、あんたのこっちゃ、もう、なあんにも心配することあらへんで。有り難いこっちゃ。」と、そして父は「そやけどなあ、おまはんがまだ嫁はん貰ろてないのが一番の気懸かりやがな。」と、胸の奥底から滲み出すか細い声でつぶやいた。つぶやきを耳にして、萬次は「あっ」と声にならぬ声を飲み込んだ。
父や母の胸の内、子を思う親の切なさに思い至ろうとしなかった自分自身が悔やまれ、口には出さぬまでもそのことを深く深くお詫びした、と折りにふれて初代は語っている。『親への孝心は、月日への孝心と受け取る』とのお言葉を、初代は胴身にしみて悟られたのである。
三日後、父利木蔵大人は、「のどが渇いた。きれいな湯呑みにきれいな水を一杯汲んできてんか」と頼み、その水を一滴余さず飲み干して、「あー、おいしかった。さあー、これでちょっと休ませてもらおか」を最期に、六十五歳の生涯を閉じられた。父君の美事な出直しは、初代に親の心を慮ることの尊きを知らしめ、親の思いに添い切ることを教え込んだ。その後の初代会長が通りし道に、明白に示されている。
竹川としゑ二代会長萬次が親の思いに添う気持になった時、初代に全幅の信頼を寄せている熱心な信者大見きぬから、娘としゑをぜひ嫁にとの申し出があった。としゑは数え年十八歳とまだ若く三十三歳の萬次との年齢差はさておき、単独布教師との結婚が決してバラ色ではなく苦労が先立つことは容易に推察できる。しかしとしゑは「親の言うことは聞いておけば間違いはないやろう」と親の思いを聞き入れた。萬次、としゑお互いが親の思いに、「なってくる理」に素直に従っての門出をしたのである。
設立承認書結婚翌朝から初代はおたすけに出掛け、新妻としゑ(後の二代会長)は縫い物で生計を支えるという、経済的にはどん底からの出発であり、言い知れぬ苦労も並々ではないはずだが(をや)の思し召しを布き広めるとの気概に満ちた毎日は、明るく喜びづくめであったにちがいない。二代会長の口から愚痴や不足、泣き言が出たことはないという。
苦労話の出ようはずはない。道一条を定めた日から、承知の上で踏み出した道であり、一人に語りかけ一人におさづけを取り次ぐ毎に喜びが弥増す。早朝から夜遅くまでおたすけ・においがけに大阪を巡った。「会長の履く下駄はいつもすり減って板のようになっていた」と赤松キヨ姉が述懐している。二代会長はその下駄の音をこころ良しと出迎えた。
奉告祭おかきさげ固い二人の喜びが大輪の花開き、大正十二年十二月二十一日、大阪市港区市場通り一丁目九番地において、飾大宣教所として実を結び名称の理をお許し頂く。翌十三年三月十一日付にて地方庁より許可。
二代会長竹川としゑは、明治三十年三月二十五日飾磨郡家島町宮に、大見豊松、きぬの次女として誕生した。尋常高等小学校を終え、十四歳の時大阪船場の旧家に行儀見習いとして奉公に出た。そのお宅の奥様が生花を活けておられる姿に魅せられ、やがては自分も、と夢を思い描いた。初代との結婚話が出た時は、華道、茶道に熱中しており「ついては結婚しても引き続いて稽古を続けたい」と両親に懇願したのもやぶさかではない。「そちらへ参りましても、夜なべ終えて後は、念仏唱えることをお許し下さい」と、善兵衛様の結婚にあたって希望を添えられた教祖に思いが及ぶ。布教師の家内が茶道や華道とはと一蹴するところ、初代は「お道の将来には、きっとその素養が必要な時がくる」ととしゑの申し出を受け入れ、更には「大いにやればよい」と励ましている。
二代会長の華戦後後年、二代会長が十四歳にして思い描いた夢が教会本部、大教会、大阪教区において活き、大切なこととして重く用いられている。二代会長が花や茶に純粋な気持ちで注ぎ込んだ意志が尊く、親の道ととは茶の心に近づく道であろうし、天理の道は教祖のお心ににじり寄る道だからである。念願の宣教所設置が成り、初代夫妻とようぼく信者の喜びが如何ばかりかは大いに窺い知ることができる。そしてさあこれからや、との思いが弥益したであろう姿を思い描くことができる。確信した道を丹念に歩んだ夫妻の道すがらに表されているし、昭和十年頃の大祭には参拝者が神殿に溢れ、玄関の土間にカケ出しを造って膝詰め合わせて参拝をしたという状が明白にしている。
しかし、会計面ではなかなか苦しい状態であったと聞き伝えられている。時代は前後するが、二代会長は『みちのとも』に「ある時は、神様の日々の御供えのお米がなく、おさがりのお米を食べてしまうと翌日の御供えができないので、翌朝また洗いなおしてお供えさせて頂くという日が何日も続き、お米が黄色に変色してしまうこともありました」と述懐している。また「苦労を苦労と思わず、不自由を不自由とも思いませんから、苦労話というものはありません」と記している。これは決して“楽あれば苦あり、苦あれば楽あり”との世情諭しではなく、確と目標を見据えておれば、物が無い金が無いなどに一憂の必要はない、との初代会長、二代会長の生き様である。そしてその源は教祖のおひながたに示されている。
市岡時代の教会前にて_昭和7年頃宣教所設立からおよそ十年、教祖五十年祭の年には初代夫妻から喜心の種を仕込まれた信者約百二十名がブラスバンドを結成し、数回にわたって徒歩団参を行い、初代は多数の信者の先頭に立っておぢばがえりをしたという。
着々と前に進む飾大分教会だが、昭和二十年三月十三日夜の大阪大空襲に依り全焼。大半の信者が罹災者となった。その日初代は上級の月次祭で飾磨に参拝していた。大半が焼土となった大阪に為す術がなく、二代会長が初代に「これから戦争はますます激しくなるし、どうする事もできません。しばらく郷里の姫路へ帰ってはどうでしょうか」と申し出たところ「おまえ、帰りたければ帰れ。わしは帰らん」と初代はきっぱりとこの言葉をはねのけられたという。そして上級や知人から寄せられた援助の品を、全て罹災した信者さんを探し当てては届けたという。「形は消えても理は残る」とのおことば通りに踏み行ったのである。
被災した都市の多くの教会がそうであったように、かろうじて運び出したお目標様のお伴をして居を遷し、時には畑作りもした。五軒長屋の二階建てを改造しておつとめをした。多くの信者が疎開しており、限られた人数だが月次祭をつとめ、皆が持ち寄った食べ物で直会をした。「やはり皆が一緒にこうして食事をするのはいい事やなあ」と初代が述懐したという。
初代会長のお墓昭和二十三年二月三日、竹川萬次初代会長が出直した。享年六十七歳である。出直しする直前に初代会長が息子俊治へ残した言葉は「何にも言うことはない。ただ、お道を通らせてもろうたらそれでいいのや」である。をやを自分の心のものとして、否みなく半世紀を貫いた人の言は重く、後の三代会長に強烈な託宣として届いたのである。昭和二十二年五月二十五日、竹川としゑが二代会長に就任した。初代の出直しと立て会い、決して理想的ではない現教会の移転普請をとのこ声が出るようになった。西区靱で海産物を商っていた役員の河村弥三一が「売地」の立て札を見つけ「この土地は靱大神宮の焼け跡だ」と気付き「お宮さんの跡へ教会が移ってくるのも悪くない」と教会に駆け込んだ。相談の結果、土地を管理している湊川神社の宮司と掛け合ったが、法外な価格に、一同断念も止むなしとなった。その夜二代会長が夢を見た。二代会長はペンペン草の生えている見たことのない土地に立っており、二つもある井戸にこんこんと水が湧いている。そして初代会長がにこにこと笑っている、という夢である。二代会長はこれはなんとしても購入せねばならぬ、いや購入させていただけるに違いないと確信した。二代会長は予想を超える金額に立ち向かい、必死の想いで金策に走り廻った。二代会長が終戦後間もなくにをいがけに歩いている時親しくなったお方に、懸命にこの話を伝えたところ、かねてから二代会長の信仰姿勢に心打たれていたそのお方が、高額の株券を無償貸与し、その上銀行からの融資まで話を進める、と申し出られた。二代会長の見た夢が現となるのである。夢は“夜見るもので、儚いものだ”との言いは二代会長には当てはまらない。二代のすさまじく行動する活力が夢を現実の姿に変えているのである。土地購入の日の朝、まだ一万円札の無い時代、札束が一杯入った大きなボストンバッグが神様の前にお供えされていたことを三代会長は覚えている。
かくして、初代会長が大正の始めに単独布教に大阪へ来た最初の布教拠点の直会の土地があたわったのである。昭和二十四年二月三日は、初代会長の一年祭に於いて、御霊前にその報告が直され、直ちに教会復興建築に取りかかった。
移転建築落成奉告祭にて昭和二十五十月二十四日、秋季大祭に合わせて移転建築落成奉告祭が盛大に執り行われた。ここに至るに、初代が道一条を心に置いてから五十二年、宣教所の声をあげてより二十八年の歳月が刻まれているのである。初代、二代が築いた幹は揺るぎなく太く堅く、そして枝を伸ばした。昭和二十四年二月には東京で布教していた原田延夫が飾本分教会を設立し、同年四月には竹川蔵之が芦屋に飾芦分教会を設立した。
三代会長就任奉告祭昭和三十三年九月二十六日、後継者が十分に成人したゆえを以て退き、竹川俊治が三代会長に就任した。
初代会長竹川萬次と二代会長としゑの信仰をまるごと受け継いで嗣子竹川俊治は、京都大学文学部哲学科において宗教学を専攻し、卒業後直ちに廣行分教会の長女由久代と結婚をした。暫くは教会に在って二代会長を扶けたが、昭和三十年四月一日から夫婦揃って布教の家東京寮に入寮した。教区長は東本大教会の中川よし初代会長の次男中川光之助先生であるが、先生は六名の入寮者に対して「お前達はこの東京へ布教に来たのだから布教師としては一人前である。何も言うことはない。お前達勝手に自由に布教せよ。何かあったら言ってこい」と訓辞された。布教のイロハを教えるのではなく言わば突き放されたわけだが、かえって「よしやるぞ」との意欲が沸いた。
月次祭風景_昭和30年頃教区長さんに教えられるまでもなく、街を歩く事が布教のイであると心得て歩き、「このあたりに病人はいませんか」とロを実行した。「昨夜救急車が来ていた家がある」との答えから、池袋の病院を突きとめ、意識の無い若い女性におさづけを取り次ぐハに及んだ。が、当然のこと乍らニはご主人に追い出された。そのままひるんでは布教にはならない。ホに進むべく翌日も又病人の枕もとに立った。親の反対を押し切って結婚し、女の子を授かったが死亡、加えて奥さんの幼なじみと主人の浮気と心労が重なり、睡眠薬自殺に至ったのだと聞かされ、その夫妻の年齢が図らずも自分たちと同じ二十七歳と二十四歳であるにつけ、親神様の布教を志す者へのお引き合わせを知り、親神様が見せて下さっている、先廻りして手を引いて下さっているのだと実感した。これがヘである。更には、おたすけは人様に助かってもらいたいと念じて行くのだが、実は自身のいんねんを切ってもらっているのだ、ありがたいことだと、トを思い知った。
前真柱様御揮毫起点となった若い奥さんへのおたすけ布教のイロハを片時も離さず実働しその実を積み重ねた竹川俊治は、よのもと会のたすけ委員となり、またよのもと会講演部講師に任命される。また昭和五十二年からはおたすけをする編集者として、道友社天理時報の編集主任をつとめた。天理時報の増部が打ち出されたが、折しも清水國雄表統領の「何倍の増部などと的の定まらないことではだめだ。三十万軒の天理教の講社があるのだから三十万部としよう」との一声を受け、担当者全員増部に明け暮れた。日帰りで北海道に巡回するなど真剣に取り組んだ竹川は、一時期三十万部を達成した成果から、思いを尽くせば成る、を肌身で味わっており、確と標的を定めて猪突すれば、神様がはたらいて下さるのだとの確信を得た。ボヤけた指針は目標とは言えないのである。
その後五期に亘って天理教集会員をつとめ、更に議長を一期、副議長をつとめた。大阪教区の上では中央西初代支部長、教区主事、布教の家寮長として積み重ねた実績を発揮している。
前真柱様お入り込み昭和五十五年十月二十一日をもって天理時報編集主任の重責を全うした竹川俊治は、翌五十六年の春季大祭に発布される諭達に依って全教が教祖百年祭の活動に踏み出すが、私はどうすればよいのか、自分は何をすれば良いのか、と思案した。しかし心に治まる答えは出ない。―――私は、遂に思い余って、ただひたすら親神様、教祖におすがりしようという心になり、十一月の初めから、毎夜十二時、教会の神殿に額づき、お願いをした。―――以下立教百五十六年道友社刊『神がはたらく』を読み略記すると、神殿に額ずくこと九日目の夜竹川は夢を見た。外国の見知らぬ土地で苦しんでいる男におさづけを取り次いでいる夢を見たのである。夢を以て「親神様がお応え下されたのだ」という真実を肌で知り、夢の見知らぬ土地は台湾と定め、昭和五十六年四月二十七日中正空港に降り立った。重度の障害児に「御供」をきっかけとしておさづけを取り次ぐことが出来た事実を通して、台湾への第一灯が点じられた。―――「をや」の眼差しが、じかに私に注がれているような感動を覚えた―――と竹川は記している。
自宅電気店での張國鎮さんと四代会長第二の道は高雄の王月華さんが、太鼓の音に惹かれて教会を訪ねてきたことが端緒となった。第三の入口は大阪都島での戸別訪問にある。アパートの前で声をかけた人が台湾人で、この方は一時間ほどの間に心が動き、翌日におぢばがえりをした。豊原出身のオートバイ商で、後の飾大豊原教会の初代会長となる廖鸞さん(平成二十一年四月二十四日お出直し)や張國鎮さんを紹介してくれた。
竹川俊治の台湾布教への思い、それはとりも直さず親神様、教祖の思召しであるが、縦に横に綾なし、平成九年一月二十六日飾大豊原教会として花開き、平成十七年十二月二十六日には趙志郎を初代会長として飾大台北教会と成って実っている。
平成五年十一月満六十三歳の竹川俊治は胃部幽門癌のお手入れに直面した。父竹川萬次と同じ身上である。お見舞いに来て下さった方々から、実にいろいろとおさとしを頂戴した。しかしどうも心の底に響かない。癌になる心遣いには思い当たるが教科書にあるような「病のさとし」はどうしても心が治まらない。特効薬をのおさとしを越えて、親は自分にもっと大きな想いをおかけ下されているに違いない、とをやの思いや如何に、を模索し、改めて教祖に思い至った。教祖のひながたは、親神様の思いのままに貧に落ち切り、親神様の思いを立て切ってお通り下された。壮絶な戦いとも言える五十年こそひながたなのだ、と感じ取り、「おまえは海外布教せよ」と幽門にご褒美を下さったにちがいない、教祖から頂戴した思いを立て切って通るぞ、と覚悟が定まると嬉しくて仕方がない。いつの間にか癌は消えていた。
書家の孔伯鏡氏御揮毫海外布教こそ教祖からいただいた使命、宝物なりと合点した竹川俊治は、マレーシアから中華人民共和国にと夢を拡げてゆく。西国を巡る遍路が冠る笠に「一処不住同行二人」と墨書されている意が「御仏と共に人生を旅する」であるが、竹川は出来ても出来なくても良い、成果は自分で達成できるものではなく、親神様がお与え下さるものなのだとの思いを抱き、教祖のお伴をして見知らぬ外国を歩いている。(見積書を見てあるいは予算書どおりに布教が出来るわけがないし、そもそも信仰と言えない。)
ミャンマーに於ける神様お鎮め更にはミャンマーに夢を馳せた三代会長は、積極的に僧侶ににをいがけをし、僧を卒業させて天理教の布教師にしたいと望んでいる。ミャンマー全体を天理教にしたい、と夢は大きい。をやの思召しに添って大きな夢を描き、出来る出来んはさておき、定めた心どおりにしっかりと通れば、教祖が先廻りして下さるのだ、が竹川の胴身にしみ込んでいるのである。
海外布教するにあたり、竹川は「一れつきょうだい」を説く。何教であろうが何宗であろうが、反論は出ない。そして「せかい一れつよふきぐらし」に及ぶと、相手の緊張がほぐれ、心が緩む。その時をのがさず「身上かしものかりもの」「十全の守護」をその方の心にすり込んでいく。さながら剣道の居合抜きで言うところの「一足一刀の間合い」であり、常に真剣勝負たる竹川俊治の真骨頂がうかがい知れる。
八十歳の竹川をして、多くの人が元気だから海外に行けると評するが、竹川は否である。行ってよふぼくとして働くから元気が出るのだと実感として語り、「肉体の老いは恥じずとも、心の老いは恥ずること」と後輩を戒める竹川は、さながら「少年よ大志を抱け」と望んだクラーク博士の目指す少年であり、教祖にとってかけがえのないこどもなのではないだろうか。


資料ご協力のお願い(shikidai24.comの管理人より)

昭和20年3月13日の大阪大空襲により天理教飾大分教会が全焼し、戦前を中心に貴重な資料の大半が失われています。天理教飾大分教会にまつわる資料をお持ちの方がいらっしゃいましたら、時期や有形、無形(口承)を問いませんのでご一報いただきますようお願いします。

 
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