湧き立つよろこびを求めて

第38回【教祖のひながたについて1】

「貧に落ち切れ」

「稿本天理教教祖伝」第三章道すがらのはじめに
 「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。」とある。
 教祖のひながたをたどろうとする時、この「貧に落ち切れ」と言う親神の思召を、教祖はそれこそ二十数年という長い歳月をかけて徹底して実行されるのに、多くの人々は、先ず驚くのである。【ほどこし】にも様々あるが、教祖は中山家の土地や母屋に至るまで施していかれる。
 そのために、教祖のひながたをたどろうとすると【私にはそこまでできない】と思い、教祖のひながたを歩むことは到底不可能であると、半ば、あきらめてしまう向きもあるようである。
 そして、教祖のひながたから、人々にやさしく親切にと言った側面や、物を大切にという部分をとりあげて、それなら私にも実行可能だと考えて実践する人もいる。勿論、それはそれで良いのであるが、「貧に落ち切る」と言う事に眼をつむってしまっては、ひながたの大事なところを見失うことになると思う。
 教祖のひながた五十年の根底には、親神様の思召を立て切って通るというご精神が一貫して流れているのであり、「この家形取り払え」とか、「今日より、巽の角の瓦おろしかけ」、「明日は、家の高塀を取り払え」という親神様の思召を忠実に実行されるのである。夫の善兵衛様やまわりの人々がそれに反対されると教祖の身上が迫り、遂には思召通りになっていくということである。教祖は親神様の思召のまにく、ということであるが、どこどこまでも思し召しを立て切って通られるためにあらゆる努力をされ、心をつくしていくというのが教祖のご精神ということである。

「世界だすけの布石」

「貧に落ち切れ」「家形取り払え」などの親神様の思召は、長年にわたるお道の歴史、とりわけ世界一れつをたすけたいという大事業を遂行される親神様が一つ一つ必要にして不可欠な布石を打っていかれているということが、後になって私達にも理解できるのであるが、その当時の人々にとっては、まったく不可解な事柄としか受け取れなかったであろうと思われる。「貧に落ち切る」というのも、その一環としてとらえることができる。
 教祖ご自身は、ひたすら親神様の仰せ通りというか、思召を立て切って実行されているが、その徹底ぶりはすさまじい、の一語につきる。
 私たちにとっては、教祖の思召を立て切って通るということが教祖のひながたを歩むことなのである。
 「貧に落ち切れ」という思召を立て切って通ることが、その結果として、執着を去り、身分や家柄や世間体や名誉欲や財産や学歴や地位等々にこだわらず、またそれらに頼る心を一切捨てることができるのである。
 ただひたすらに親神様の御守護にもたれ、親神様(教祖)の思召を立て切って通るということが、教祖のひながたをたどる私たちの根本的な精神ということである。一時は苦しくとも、それがもっとも確かな陽気ぐらしへの道であり、それ以外はないのだということである。

「私自身の場合」

さて、私自身が教祖のひながたを歩ませて頂くには、どうすればよいのかと、折にふれ事にあたって、常に念頭から離れることなく心掛けて歩ませて頂いてきたつもりであるが、【私はこうして教祖のひながたをを歩ませて頂いている】という私自身のひながたの理解と実行ー私の信仰告白の一端を述べさせて頂きたいと思う。まだまだ不充分であり、私自身の成人途上の道すがらの一つということで読んで頂ければ幸いである。
 教祖百年祭は昭和六十一年に執行された。私の五十六才の時であった。飾大分教会の会長のお許しを頂いて二十数年、種々結構なご守護を頂きお連れ通り頂いていたが、この百年祭という旬に、私自身が信仰の上に大きな成人をさせて頂きたい、わが人生に悔いのない真実のよろこびを体得させていただきたいという願望が湧き出てきた。教祖百年祭のお打ち出しは昭和五十六年一月二十六日に諭達第三号をもって全教に発表されたのだが、現在の百二十年祭活動と同様に、お打ち出しと同時に直ちに、年祭活動に打ち込みたいという思いから、かねがね連日のように思案させて頂いていた。
 諭達ご発表を出発点として、私は海外においても布教させて頂こうと心を定めた。(この点についてては私の著書『神がはたらく』『たすけ』のビデオその他で既に知って下さっていると思うので省略させて頂く) 何をさせて頂いたらよいのか、と思案しているときに、思いもよらず【海外においてもおさづけを取り次げ】との教祖の思召、私は夢を通してその思召を聴かせて頂いたと悟り、その思召を忠実に立て切って通らせて頂こう。それが教祖のひながたを歩む私の通り方であると自覚した。教祖がそうせよと仰っているのだ、それがどんな結果をもたらすかは勿論わからないし、私自身もすでに五十歳の半ばを過ぎている。教内でも様々な御用で多忙な中を、何を好んでそんな事をするのか、と多くの人から私の【無謀】を指摘し批難し、断念するようすすめる人が多かった。
 私自身は、何はさておいても、教祖の思召がそこに在り、その思召を立て切って通らせて頂くこと、それが教祖のひながたを歩むお道の信仰ではないかと悟り、昭和五十六年四月から台湾へおさづけを取り次ぎに行くという極めて単純素朴な心で始めさせて頂いたのである。
 それから丁度二十年が経った。現在でも台湾での布教は継続して実行させて頂いているが、予想もしなかった有難い結構な御守護をお見せ頂きお連れ通り頂いている毎日である。

「思召を立て切って通る」

親神様の思召を立て切って通られたのが、教祖のひながたである。五十年にわたる教祖の道すがらは、それを徹底してお通り下されたのであって、たとえば、「貧に落ち切れ」という親神様の思召を立て切ってお通り下された教祖の御事歴や道すがらについては、みなさまも御承知であり『稿本天理教教祖伝』や『逸話編』を、このような観点から拝読させて頂くと、また新しい理解と納得ができるように思うし、教祖のひながたを歩ませて頂こうという意欲が、より一層激しく湧いてくるようになったというのが、私の実感である。
 なお、教祖のひながたについては、「思召を立て切って通る」という観点と重なり合って「たすけ一条」「神一条の道」「親心」といった教祖のひながたの核心ともいうべき事柄については、追々触れさせて頂くつもりである。

(2003年4月)