竹川俊治前前会長インタビュー

2012年6月10日更新

5月26日発行の季刊紙「あらきとうりょう」第247号(天理教青年会発行)に竹川俊治前会長のインタビュー記事が16ページ(P64〜P79)にわたり掲載されました。
このたび、発行元のご厚情によりホームページへの転載が可能となりましたので、ダイジェストを掲載させていただきます。
なお、インタビューのより詳しい内容やホームページに掲載しきれなかった内容(海外布教や前会長ご自身の身上(胃がん)など)については「あらきとうりょう」を是非ご確認ください。
季刊誌「あらきとうりょう」については天理教飾大分教会までお問い合わせいただけましたら、お取り次ぎなどさせていただきます。


はじめに

竹川俊治 「存命の教祖が、わざわざミャンマーまでお出張りくだされているんですよ」
開口一番、感慨深げに、そしてとても嬉しそうに話し始めたのは、飾大分教会三代会長・竹川俊治先生。
挨拶もそこそこに、「存命の教祖が……」と話し始める先生からは、そのときの感動を伝えたくて仕方ないという気持ちが、ひしひしと感じられた。
今年で八十三歳を迎える竹川先生は、現在も足しげく海外へ足を運び、にをいがけ・おたすけに日夜奔走されている。
このバイタリティーは、一体どこからわいてくるのだろうか―。
(インタビューの聞き手は、飯降好助青年会本部出版部委員です。)


をやを誠にして通る

―先生の信仰の原点をお聞かせください。

飾大分教会初代会長竹川満次 「何も言い残すことはない。ただ、ただ、このお道をしっかり通らしてもろたら、それでいいのや」
この父の最期の言葉によって、私はお道を通ることを心に決めました。
父である竹川萬次は、十六歳のときに眼病を御守護いただいて入信します。そして、両親の反対を押し切って道一条を決心し、飾磨分教会に住み込み、そして、数年後には大阪に単独布教に出て、大正十二年に飾大宣教所のお許しを頂きます。
ところが、長年の苦労の末に設立した宣教所は、昭和二十年の大阪空襲によって焼失し、信者さんの多くも家を失うことになります。そのとき私は、「こんなことで、この先も天理教をやっていけるんかなあ」と不安に思いましたが、そんな中にあっても父は、戦火で焼け野原になった土地を耕して、神様にお供えするための野菜を作り、戦災に遭った信者さんの修理丹精にコツコツと足を運んでいました。
そして、昭和二十三年二月三日、私が十八歳のときに、父が六十七歳で出直します。裸一貫で道一条になってから出直すまでの約五十年間、生涯かけてただ一筋にお道を通ってきた父でしたが、出直すときもまた裸同然の状態でした。
そんな父が、最期に私に残してくれた言葉が、「何も言い残すことはない。……」の一言だったのです。
戦後の日本は、揺るぎないと思われていた国家の秩序と権威が一瞬にして崩れ去り、昨日まで正しいとされていたものが、次の日には間違いとされるような混乱期にありました。「この世の中で、本当に頼りになるものがあるのだろうか」「いつの世にも、変わらぬ真実はあるのだろうか」と不安に揺れ動いていた私の胸に、父の最期の言葉がズシンと響きました。そして、それまで信仰とは関係ないという態度だった私は、父がどれだけの信念を持ってこの道を通ってきたのかを知り、「私もこれからこの道を真剣に通ろう」と心に決めたのです。
そして、父が出直した月の二十六日に初席を運び、その年におさづけの理を拝戴しました。これが、私の信仰の原点です。


たすける理でたすかる

―東京で布教されたときのことをお聞かせください。

飾大分教会三代会長夫妻 大学卒業後、上級教会や自教会で住み込み青年をし、昭和二十九年に二十五歳で妻と結婚しました。その披露宴で、上級の会長さんから「結婚式が済んだら、さあ今度は夫婦で布教に出よ」と言われ、訳も分からぬまま「出させていただきます」と返事をしました。そして、翌年の四月から単身で「布教の家」東京寮に入寮したのです。
寮を出て十分ほど歩いたところで、二人のおばさんが立ち話をしていたので、私はその二人に「ちょっとお邪魔します。天理教の者ですが、この近くで病気や事情で困っている方はおられませんか?」と尋ねました。
すると、その二人は「昨夜遅くに、あそこのたばこ屋の二軒隣の家から救急車が出て行ったよ」と教えてくれました。訪ねてみると、そこは留守でしたが、たばこ屋のおばさんが「その家の奥さんなら、池袋の病院に運ばれたよ」と教えてくれ、早速その病院を訪ねました。
受付で病室を聞き、恐る恐るノックをしましたが応答がありません。意を決して中に入ると、一人の婦人さんが酸素吸入器を付けて、眠っていました。声をかけましたが、昏睡状態で返事はありません。私は、十分ほど突っ立ったままでしたが、せっかく来たんだからおさづけだけでも取り次ごうと、どんな病気かも分からないまま頭と胸に取り次ぎました。頭と胸なら、十中八九、間違いないと思ったからです。そして、フッと振り向くと、私の後ろに大きな男性が怖い顔をして立っていました。「コラ、おまえそこで何をしている!」と怒られた私は、しどろもどろになりながら、「私は天理教の布教師で、病気が良くなってもらおうと、おさづけというものを取り次がせてもらったんです」などと説明しましたが、「そんな勝手なことをするな。出て行け!」と追い出されてしまいました。
翌日、私は再び病室を訪ねました。その日も、婦人さんだけがベッドに寝ていました。生気のない青い顔をしていましたが、酸素吸入器は取れていました。私は、婦人さんにおさづけの取り次ぎを申し出ましたが、いやとも応とも言いません。年齢を聞くと、初めて「二十二です」と口を開きました。私の女房と同じ年だなと思いながら、昨日の男性について尋ねると、「それは夫で二十六歳です」と言うのです。私は、それを聞いて驚きました。私と同じ年だったからです。当時、すでに一千万都市といわれていた東京で、初めておさづけを取り次いだ相手が、夫婦揃って私たち夫婦と同じ年。不思議な縁を感じ、親神様がこの人と私を引き寄せてくださったと思う他ありませんでした。
そして、退院後も毎日おたすけに通う中で、さらに親神様の不思議なお計らいを感じることになります。その婦人は、夫の女性問題を苦にして大量の睡眠薬を飲んで自殺を図ったと知ったからです。その話を聞いたとき、数年前に、私の親戚の若夫婦の夫人が結婚一年足らずで自殺したことを思い出し、私たち夫婦にも同じいんねんがあることを見せられていると思いました。そして、私はこの夫婦のおたすけをしていると思っているが、実は私たち夫婦のいんねんを切るために、おたすけをさせてくださっている。これは、「おたすかりなんだ」と悟ったのです。


をやを誠にして通る

―布教する上で、心がけていることは何ですか?

私は、「をやを誠にして通る」ことを常に心に置いています。それは、をやの「世界一れつたすけたい」という思召を、なるほどと頭で理解するだけでなく、どんな障害があっても実行する、ということです。
私が東京で初めて、立ち話をしているおばさんに声をかけたときも、思い付くままでした。おばさんも普通なら、「けったいなやつやなあ。知らんがな」と言えば、それまでです。でも、一生懸命考えてくれて、それがおたすけに繋がったのは、今から考えると神様のお働きだったと思います。自分としては、いかに誠真実を出せるか。それによって、神様のお働き、御守護を頂くのが信仰者としての心構えだと思います。
そして、その真実とは、人にたすかってもらいたいという真実ですが、それは、身上・事情で困っている人をたすけたいという狭い意味だけではなく、一番大事なのは、信仰していない人に信仰してもらえるようにする。すなわち、「をやを誠にして通る」までに丹精することがおたすけであり、布教の最たるものだと思います。


ほんものの信仰者

―最後に、道を歩む若者にメッセージをお願いします。

飾大ヤンゴン布教所にて(立教174年12月撮影) とにかく、一人ひとりが「教祖が喜んでくださる、教祖に受け取っていただけるよふぼくになる」。ただ、それだけです。それこそ「ほんものの信仰者」だと思いますし、若い人にはそれを目指してもらいたい。
「ほんものの信仰者」の核心は、かりものの理に生きることです。親神様の御守護に包まれ、自分はすでにたすけていただいている。現実に私はここにある。ありがたい、嬉しいと思うと同時に、そのご恩に何としてでも報いたいという自発的な思いから、「世界一れつたすけたい」というをやの思召を、いかなる障害があっても全身全霊で実行する。つまり、誠にして通るということです。
だから、にをいがけ・おたすけをすれば、教祖は喜んでくださり働いてくださる。喜んでくだされば、百人に一人か、二百人に一人かは分からないけれども、おぢばがえりしてくれたり、別席を運ぶ方をお与えいただけるように思います。私たちは、教祖の道具衆です。道具衆は、教祖の手足となって、思召のままに動くのが道具衆ですから、とにかく「おぢばがえりをしましょう」「教会に来てください」と、声をかけさえすればいいのです。結果は、神様の領域です。
にをいがけ・おたすけをすれば、教祖が存命でお働きくださっていることを肌で感じることができます。存命の教祖のお働きをじかに感じたら、皆この道を通らざるを得なくなるじゃないですか。にをいがけ・おたすけは、陽気ぐらしへの最短距離なのです。
私は、年を重ねるにつれて、布教意欲が一段と盛り上がっていくのを感じます。そして、「狂となって突っ走れ」と心に念じながら、楽しく布教活動に専念しています。ほとんど毎月、海外へ布教に出させていただいています。誠に、私は幸せ者です。
皆さんにも、にをいがけ・おたすけの中で、存命の教祖のお働きを肌で感じてもらいたい。そして、をやの悲願である「世界一れつたすけ」に向かって、万難を排して突き進む「ほんものの信仰者」になってもらいたいと思います。


おわりに

取材を通して分かったことは、先生の布教の原動力は、にをいがけ・おたすけによって存命の教祖のお働きを肌で感じ、その喜びや感動が、さらなる布教に先生を駆り立てている、ということである。
先生は言う。「歳を重ねるごとに、布教意欲が増しているのを感じます」と。
先生のすごいところは、それを意欲のままで終わらせるのではなく、どんなに困難な中でも全身全霊で実行に移すことである。
インタビュー中、私は以前、先生の著書の中に見つけた、「情緒の気分にのみ浸っている」という一節を思い出した。
先生と私を比べるのはおこがましいが、私も教理やおたすけ話に触れる中で、「お道は素晴らしい。さあ、動こう」と意欲を燃やすことがある。しかし私の場合、その意欲が持続せず、実行に移せないことのほうが多いことに、深く自省させられる。まさに、情緒の気分にのみ浸っている姿である。
「明日から動けなくなるかもしれない。でも、いいんです。たすけ一条の上に、にをいがけ・おたすけに徹したい」
最後にそう語ってほほ笑んだ先生の目に、どんな困難な中もをやの思召を立て切って通る、「ほんものの信仰者」の覚悟と信仰信念を見た。


「あらきとうりょう」第247号 インタビュー〜たすけ一条に生きる〜竹川俊治より抜粋


 
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